「……あれは、やりすぎではないか?」 低く押し殺した声に、男はぴたりと足を止めた。薄明の回廊に冷たい風が吹き抜ける。 「うるさい。私にだって、腹が立つことくらいある」 吐き捨てるような声だった。が、それは珍しく感情の端をこぼした男の、数少ない本音の一つだった。 「……あの男、近いうちに何かやらかす。確実にな」 「敵、なのか?」 青年の問いかけに、男はほんのわずかに目を細めた。 「――違う。正義が違うだけだ」 「善と悪、たったそれだけで人を量れるなら、理など必要ない」 深い沈黙が落ちた。 青年は少し躊躇ったあと、また静かに口を開いた。 「……おまえが背負っているそれを、誰かに話すことはできないのか?」 問いは素直だった。愚直なまでに真っ直ぐで、幼さすら感じさせた。 だが男は、眉一つ動かさぬまま答えた。 「話してどうにかなるものなら、とうに話している。無用な混乱を呼ぶだけだ」 苛立ちに任せて、扇を勢いよく閉じる。微かな音が、闇に沈みゆく回廊に鋭く響き渡った。 「……ああ、まったく腹立たしい!」 そのときだった。回廊の脇から、唐突に穏やかな声が響いた。 「まあ、珍しい場面ですね」 ぎくりとして振り向いた男の顔に、明らかな動揺が浮かんだ。 「……げっ」 男が思わず情けない声を洩らす。振り向けば、静かに立っていたのは一人の女官。 「……これはこれは、侍女長殿、お見苦しいところを……」 「皇女様には何もお伝えしませんので、ご安心ください」 穏やかで静かな微笑。男は、珍しく動揺した様子で扇を弄んだ。 青年はその女性に目を留める。長身で凛とした佇まい。特に気になるのは、その頭部に生えた美しい角だった。細く優雅な曲線を描くその角は、薄闇の中でほのかに輝きを帯びている。 青年の視線に気づいた侍女長は、微笑みながら自らの角を指さした。 「……あら、こちらですか? 私は“有角種”と呼ばれる長命種の一種なのです。この白晶宮では私一人でしょうね。珍しいのも無理はありません」 「……あなたはこの国の人ではないのか?」 「ええ、翠晶宮の出身です」 それを聞いた男が静かに言葉を添える。 「天上は七層に分かれている。翠晶宮はその第四層だ」 侍女長は静かに頷く。 「私が外交に出ている間に国交が断絶してしまい、もう何千年。祖国が今どうなっているのか……」 侍女長の瞳にわずかな翳りが落ちる。 「白晶宮は何度か交渉を試みましたが、どれも徒労に終わりました。帰る場所を失った私を、皇女様が拾ってくださったのです。この恩義は一生忘れません」 男は何かを思うように視線を伏せた。 「それは?」 青年が指差した先には、小さく布に包まれた肌着のようなものがあった。 「ああ。侍女の一人が、子を授かりまして」 ふっと笑みを浮かべる侍女長の横顔は、どこか母のような優しさに満ちていた。 「この国では、命が終わらぬ代わりに、新たに生まれることも稀になりました。……だから、こうした命は尊いものです」 男はしばし黙したまま、その布包みを見つめた。 「……いいことだ。何か必要なものがあれば、私に言うといい」 「ありがとうございます」 侍女長は穏やかな礼をし、再び暗い回廊へと消えてゆく。その背中が夜闇に溶けるまで、男は無言で見送った。 やがて静かな沈黙が戻る。ふたりの間を埋めるのは、遠くでそよぐ木々の音だけだった。 青年はふと男の横顔を見つめ、小さく問いかけた。 「あなたに、子はいないのか?」 男は答えなかった。ただ、少し顔を背けるようにして、夜の空気を吸い込んだ。 そして、しばらくしてから、ごく浅く――けれど確かに、ため息をついた。